top of page
  • 執筆者の写真amitacanon

オオサンショウウオよもやま話


 こんにちは、オオサンショウウオのうおちゃんです(。・ω・。)

 みんな大好きオオサンショウウオのコラムのお時間です。

 今回は海を渡ったご先祖様のお話をしようと思います。海を渡ったご先祖様についてはシーボルトが大きく関わってきます。そこでまずシーボルトについて簡単な説明からしたいと思います。


  フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト (1796-1866)


 シーボルトはドイツ出身の医師・博物学者です。 ちなみに学生時代のシーボルトはびっくりするほど喧嘩っ早く、実に33回もの決闘を行っていたそうです。学生の決闘はしばしば行われていたそうですが、33回は多すぎるような気もします(:・ω・\)

 そんなやんちゃなシーボルトですが、大変優秀で ゼンケンベルク自然科学研究学所通信会員、王立レオポルド・カロリン自然研究者アカデミー会員、ヴェタラウ全博物学会正会員にも任命されています。彼は東洋研究を志しており、なんやかんやあって日本行きを認められたそうです。極東の島国で見る自然はどれも物珍しく、様々な研究成果を残しています。そんな中にオオサンショウウオもありました( *´艸`)

 ちなみに当時の日本では出島でオランダのみとやりとりをしていました。シーボルトもオランダ人として日本に来ていましたが、ドイツ人であるシーボルトのオランダ語は訛りがありました。幕府通吏が不審に思い問いただすと、「私はオランダの高地出身で、だから少し訛りがあります。山オランダ人なのです」と答えたそうです。ちなみにオランダの最高地点は333mです。干拓地のオランダには高山はありません( *´艸`)

 ちなみに当時の出島にはシーボルトを含む3人の先生(三先生)が勤務していましたが、オランダ人が一人もいなかったそうです(。0□0。)<ナンテコッタ

 

 さて、基本的に当時の日本では外国人は出島から出ることを禁じられていましたが、年に1回江戸に参内することが認められていました。シーボルトが江戸に向かう道中、衝撃の出会いがありました。三重鈴鹿地方において、シーボルトはオオサンショウウオに遭遇します。あまりに奇妙な生物に感じ入ったシーボルトは、雌雄を買い求めます。


©アクアマリンふくしま

 ヨーロッパにもサンショウウオはいますが、大型種はいません。化石は見つかっているのですが、未知(ノアの箱舟に乗れなかった子どもの化石という説もあります)の生物として扱われていました。この時点では化石の種の同定は出来なかったでしょうが、感覚的には絶滅した種を発見した、恐竜を発見したくらいの驚きだったのではないでしょうか。


©東広島市自然研究会

2300万年前の化石オオサンショウウオAndrias scheuchzer (レプリカ 安佐動物公園所蔵)


 その後シーボルト事件のためシーボルトは帰国しますが、その時この二匹のオオサンショウウオも持ち帰ることにしました。他にも日本犬やニホンザルといった生物も持ち帰っています。

 寄港するたびに新鮮な水と食料を買い求め、出来る限りの手を尽くして持ち帰ろうとします。といっても循環のない水は悪くなりますし、また絶えず揺れる船の中で、相当なストレスが溜まっていたこともあるでしょう。ある時大型の個体が小型の個体に噛みついたそうです。2匹はすぐに引き離されたそうですが、小型の個体はほどなく死んでしまいます。

 オオサンショウウオには共食い行動が見られます。積極的に食べに行くことはないですが、自分より小型の個体であれば食べてしまうことがあります。

 その後残った個体は持ち帰られ、無事にヨーロッパにたどり着き、飼育されます。

 51年間の飼育記録が残っており、これは2011年に川崎医大で更新(当時の推定飼育記録52年)されるまで最長の記録でした。

 当時のヨーロッパではオオサンショウウオはまったく未知の生物のため、手探りでの飼育だったと思います。それを51年にわたって飼育したのですから、とても丁寧に扱っていたのではないでしょうか。未知の生物に対してどのようなアプローチをしたのか、興味深いものです。



 当時の日本では恐らくオオサンショウウオは貴重なたんぱく源として食されていたそうです。シーボルトが見たのはもしかしたら食材になる前のオオサンショウウオ((≪0□0≫))ガタガタ

 ちょっと恐怖を感じるうおちゃんでした。それではまた~(。・ω・。)ノシ


#オオサンショウウオ #うおちゃん #歴史上の人物 #シーボルト #カノンしもがも

#アミタカノン

閲覧数:259回0件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page